吉村油店の歴史
会社設立までの歩み
当社の沿革は、慶応元年に4代目吉村長兵衛(幼名萬助)が畳商から転じて、小浜市小浜玉前に屋号和久長、商標丁として油商を営むに始まる。当時は行灯用の油として菜種油がその主たるもので、町内在所近郷に広く得意先を持ち、油商としての基礎を確立する。
5代目吉村長兵衛(幼名友吉)に至り、行灯が石油ランプに変わりランプ用の灯油がとみに増すとライジングサン石油、スタンダード石油等と提携、灯油の販売を行う。
日露戦争後当地方にも電灯が普及、灯油が減販となると食用油及び当地産の桐油の製造販売に主力をおく。第一次大戦後、漁船の動力化、農業の機械化が始まり再び石油が日の目を見るに当たり早山石油(昭和石油の前身)と契約、新潟県産の石油製品の販売を行う。
大正10年 米国石油輸入商社、テキサスカンパニー日本支社開設とともに特約店となる。
大正13年4月 三菱商事が米国アンシェデッド石油会社と提携、国内販売権を得たのを機に、三菱商事より福井県、滋賀県の一部、京都府下一帯の販売権を得て、石油卸問屋吉村長兵衛商店として衣替え、大正15年7月、6代目吉村長兵衛(幼名長太郎)が営業を継承。
昭和6年 三菱石油株式会社(後、新日本石油・現、JX 日鉱日石エネルギー)が設立、その製品販売は三菱商事が引き継ぐこととなり、商事を通じ県下ならびに滋賀県、京都府下に販路を持ち広範囲に販売。
昭和11年10月 英領蘭印の重油輸入商社、旭石油株式会社の販売機関として小浜砿油株式会社を設立、小浜市甲ヶ崎海岸に200トン重油タンク1基及び油槽船を常備、若狭を始め、越前、山陰沿岸の漁船に供給し遠くは山口県、下関港に至った。当時としては裏日本最大のタンクであったが第二次世界大戦勃発により石油の配給統制が実施され、タンクの設備は軍部の要請に従い供出、営業は中断する。当時福井県にも石油販売統制会社が設立されその重役として経営に参画。戦後石油配給公団が誕生、その指定販売店となり再び個人企業として営業を開始。
昭和24年 石油配給公団制度廃止とともに三菱石油が商事から離れ直接販売を開始するとともにその特約店となる。
昭和25年 小浜市の旧タンク跡に再び重油200トンタンク1基を設置、水産用重油の供給基地として活用、漁業発展に寄与する。
昭和28年9月25日 当地方を襲った13号台風による被害の際には弊社の油槽所もタンクを残し全部流出倒壊を見たが、いち早く三菱石油より救援物資として照明用の灯油を始め、災害復旧のための燃料油が船舶により輸送され、その油は全部災害救助隊本部に提供、遠敷、大飯両郡の各町村に配分され、多くの被災者に喜ばれた。
会社設立後の経歴
- 昭和28年 10月
- 資本金300万円の有限会社吉村油店設立営業を継承
- 6代目吉村長兵衛が社長となる。
- 昭和29年 1月
- 敦賀市に敦賀給油所開所
- 昭和30年 1月
- 小浜市に小浜駅前給油所開所
- 昭和38年 4月
- 美浜町に美浜給油所開所
- 昭和40年 4月
- 資本金800万円に増資
- 5月
- 上中町(現若狭町) に上中給油所開所
- 昭和41年 9月
- 小浜市国道27号線沿に小浜給油所開所、本社を同地へ移転
- 昭和44年 6月
- 高浜町和田に若狭和田給油所開所
- 昭和47年 2月
- 吉村芳代表取締役に就任
- 5月
- 敦賀給油所廃止
- 平成 9年 3月
- 吉村俊輝代表取締役就任
- 平成11年 4月
- 日本石油・三菱石油合併により日石三菱株式会社特約店となる
- 7月
- 伊藤忠燃料株式会社販売店となる
- 平成12年 5月
- 小浜国道給油所を福井県下第一号となるセルフ給油所へ改造
- 平成14年
- 小浜駅前給油所廃止
- 平成23年 4月
- イツモレンタカー小浜駅東店オープン
- 平成25年 7月
- 伊藤忠エネクス小浜国道給油所廃止、給油所移転
- 東燃ゼネラル石油副特約店契約 新小浜国道給油所開所
- (山下商事のゼネラルマーク給油所の運営を継承)
- 平成25年 10月
- 若狭上中給油所、カーエネクスマークからゼネラルマークに変更
さばとらナナチャンは小浜市公認のキャラクターです。
さばとらナナチャンは小浜市公認のキャラクターです。